「 今、 こ こ 」 の 証 し(2016年6月)

書には三つの呼称があります。書法と書藝と書道。中国では書法、韓国では書藝と呼ぶことが多いようです。一方日本では書道、つまり師から教えを受ける道(どう)としての姿が定着しています。このため書は習い事と見なす人も少なくありません。こうした事情もあって、私は作家活動の場を海外に求めました。そして2000年、ローマのギャラリーで個展を開く幸運に恵まれました。
 異なる価値観の中に身を置くと普段気づかない発見をします。私は海外でたくさんのアーティスト達と知り合い、自分というものを知ることが出来ました。例えば、毎日何気なく使っている墨のこと。すられた墨は常に変化し、昨日と今日では違う顔を見せます。墨のにじみは変幻自在で思い通りにはいきません。しかし制御出来ないからといって忌み嫌うのではなく、むしろ積極的にこれを受け止めます。自分の力は半分まで、あとは他力に委ねながら制作を続け、最後に書きためた数百枚の山の中から一枚を選び、残りを捨て去って作品の完成とします。
 一方、油絵具の発色や延びはその日によって変わることはなく、画家は一枚のキャンバスと 長い時間をかけて向き合い、少しずつ前進しながら完成に至ります。環境に応じて変化する不測の画材、墨。対して常に安定した不動の画材、油絵具。「諸行無常」と「永遠不滅」、まるで東と西の価値観を象徴するようです。
そもそも西洋の考え方では「人」と「自然」は対峙しており、「自然」は「人」によって制御される対象となります。片や東洋の「自然」という言葉は「人」を含めた万物全体を示します。人も自然の一部。自然を敬い、自然を畏れながら、自然とともに生きていくという考え方です。私は彼らの製作現場を見ることでこのことに気づき、自分の立つべき位置を知りました。
 ところで彼らは立て掛けたキャンバスに向かって描きますが、私は紙を床に敷き裸足でその上に立ちます。画面に向き合うのではなく、画面の中に自ら入り込み、手足を使ってアクションの軌跡を紙にしるします。こうすると頭よりむしろ身体が強く介在するので、思惑を超えた何かが起きることがあります。確かに自分が書いたのだがどうもその実感がない、でもよく見ると凄くいい、そんな感覚です。事前に青写真があると、どんなに出来が良くても結果は100点止まり。でも予期せぬ他力が介在すると120点の佳作が生まれます。頭で作り上げるものではない、それは手足からふと生まれるもの。いい作品とはそういうものだと思うようになりました。「書の本質はアクションにあり」です。
 とりわけ、書のアクションには必ず起点と終点があります。ひとたび筆をとったら字画にしたがって一気に最後まで書くのみ、やり直しや後戻りは出来ません。書かれた線を順にたどれば筆がどう動いたか、時間の流れとともに読み取ることが出来ます。一方、私が海外で目にした抽象画の多くは、書きはじめから書き終わりまでうまくたどれないものでした。芸術には、時間 に関わるものと関わらないものがあります。書は音楽や舞踊と同様、時間とともにある芸術です。私はこの経験から、見ることの出来ない時間をかたちある美につなげたいと考えるようになりました。
 禅に「今、ここ」という教えがあります。過去は過ぎ去ったものであり決して戻らず、未来は未だ先のことです。過去を悔やみ、未来を憂いてもどうにもなりません。大切なのは自分が置かれた場所で、目前にある今を全力で生きることです。私は「今、ここ」に生きた証しとしてかけがえのないこの一瞬を筆線に残したい、思惑を超えた他力を借りながら唯一無二のかたちに結晶させたい。
 自分中心、モノ中心で人々がすさんでいくこの時代、私の作品が少しでも何か明るい示唆になればと願っています。



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