書 の 特 質 と は ?(2012年11月)

書の特質とはどのようなものだろうか?
書には「造形」と「意味」があると言われる。「造形」とは作品にみられる布置や形、線質のこと。西洋美学の井島勉によれば「書は文字の美術、造形芸術の一ジャンル」であり、また書家の鮫島看山は「書は線の美、文字という素材を借りて表現する線の芸術だ」と言った。書は文字を使った造形表現であるという考え方である。
 では、「意味」の方はどうか。書は文字や言葉を書く以上、そこに何が書かれているのか、その意味が問われることになる。かつて洋画家の小山正太郎は「書は文学である」と言った。書は、文字を書き付けたものであるから美術ではなく文学であるという考え方である。しかも書は、活字表記ではあらわせないたくさんの情報を文字や言葉に付与することが出来る。書きぶり中に、書き手の個性だけでなくその時の思いや感情の襞を見て取ることが出来るからである。
 私は、書の特質としてこの「造形」と「意味」に加えて「身体」と「時間」、そして「自然」というものを考えるようになった。書とは身体の軌跡、書は自然とともにあるという視点である。私は海外での活動を通じてその意を強くした。

書と身体性

画面は床に敷かれています。私は画面と向き合うのではなく、画面の中に自ら入り込んでいきます。腰を落とし、体を少しかがめ、間をとりつつ、手足は円弧を描きます。太極拳の動きです。頭と手を使って文字を書くのではありません。文字を書こうとする身体の軌跡が紙面に残るのです。

私たちはハイテクの恩恵で安楽な日常を手にするようになった。だがその一方で、自らの身体を自在に使う機会を失うことになった。
文字書きを例にとれば、かつて私たちは筆と墨で巧みに字を書いていた。その後筆記具は代わりこそすれ、手で書きしるすという行為は古代から現代まで変わらずに続いて来た。
ところがパソコンや携帯の爆発的な普及にともない、今や文字は「書く」ものから「打つ」ものへと変わりつつある。私たちが経験しているこの変化は、文字表記の長い歴史の中でもかつてない劇的な出来事である。 筆と墨で文字を書くことが稀になった今、書はこれまでにない意義を持つことになった。それは書による身体性の回復、つまり書を通じて、身体を意識的に使うことを経験し、また身体に備わる力を再認識することである。
 私は日本とイタリアで習字を教えているうちに、書は一種の身体術ではないかと考えるようになった。習字では手本を横に置き、出来るだけ手本の特徴を捉えるように書く。書き終えたら手本と照合して不出来なところをチェックし、さらに書き続けていく。筆運びが正しくないと、つまり身体の使い方が間違っていると、その結果が半紙の上に現れる。わざわざビデオに撮らなくても、線やかたちを見れば身体の欠点が分かる。
 書の場合、一度書き始めたら後戻りは出来ないし、やり直しもきかない。最後まで意識を集中しながら、身体の動きを正確にコントロールし続けなければならない。書は一種の身体術、そう気づいてから私の指導法は身体の使い方を問うものへと変わっていった。教室では相手の筆さばきを見るのではなく、身体の動きをチェックする。フォームが正しければ、正しい結果は後からついてくる。日本人にもイタリア人にも全く同じメソッドが通用した。 一方制作においてはどうか。私は頭で考えるより、身体の力に強く依拠するようになった。作品が余程小さくない限り、机ではなく床を使うことにしている。
 これは新しいアトリエに引っ越したときのブログ。
『年末から年始にかけて引っ越しに追われていました。7年間通い続けた馴染みの場所を離れ、広くて新しいアトリエに移りました。移転に当たって考えたのは床を最大限に使うこと。そのため、前のアトリエで使っていた作業台を思いきって無くすことにしました。新しいアトリエはがらんとして床ばかりが目立ちます。すべての作品を直に床に敷いて書くことにしたのです。確かに机上の方が楽ですが、それでは手先の技巧が勝ち過ぎてしまいます。これからは何を書くのも床の上。体の動きを出来るだけ画面に伝えたい。身体性にこだわるため、作品の大小にかかわらず床書きを自分に課すことにしました。』
 もともと書の動きには東洋の舞踊や体術と共通するものがある。詩人の大岡信は、「書と言うものは舞踏に近いものといえるのではなかろうか」と指摘している。東洋の舞いの多くは、腰を低く落としたまま身体を水平に移動させる。手足の動きはゆっくりした円運動が基本となる。一方西洋では、例えばバレエのように垂直方向に高くジャンプしたり、手足を放射状に勢いよく突き上げたりする直線運動が多い。西洋の動きが一定のリズムで躍動するとすれば、東洋のそれは水の流れのように途切れることなく脈々と続いていく。
 私は20歳の時に太極拳と出会った。太極拳はまさにこの東洋独自の動きそのもの。深く腰を落とし、一貫して気脈を保ちながら円運動を行う。
「魂が月のように輝く時、気は水のように流れる」
 これは太極拳実践者の理想の状態を表す言葉である。書の表現(筆脈)と身体表現(気脈)には共通する「脈」がある。太極拳の動きを作品の制作に取り入れた場合、筆脈は途切れることなく綿々と続くので、からだの動きを軌跡のように紙面に残すことが出来る。すると、身体全体を使うことで偶然性や無意識性が働き、そこに本人の思惑を超えた何かが起きる。好きで始めた太極拳が奇しくも書に繋がった。

目の前の線やかたちが、確かに自分で書いたものでありながら、まるで自分が書いたという実感がない不思議に包まれることがある。気がついたら思いのほかいいものが出来ていたという瞬間を経験することがある。あらかじめ考えた青写真があると、どんなに出来が良くても結果は100点止まり。だが、こうした他力が介在すると予期せぬ150点の佳作が生まれる。
 私はBSの「現代日本学原論」という番組に出演した際、筑紫哲也さんを通じて陶工・河井寛次郎の『手考足思』という言葉を知った。河井寛次郎は、頭でっかちでなく手足を使うことで外部の力を呼び込み、『未だ見ぬ私が見たい』と言った。以後、私はいつもこの言葉を大切にしている。書の本質は身体性の中にあると考えているからである。
 ところで海外でワークショップをする時、「腰を落として」とか「腰を使って」とか、説明の中で「腰」という言葉を実に頻繁に使う。だが日本語の「腰」にぴたりと当てはまる外国語が見当たらない。一般的には英語なら “back” 、イタリア語なら “schiena”となる。でもこれは腰を含めた背中全体を指す言葉。西欧には「腰」を特定する語が乏しく、日本語ほど「腰」という部位に重きが置かれていないことが分かった。

書と時間性

あなたは線の流れを追うことで、私の筆の動きをたどることが出来ます。時間とともに筆がどんなふうに動いていたか、まるで制作現場にいたかのように想い描くことが出来ます。絵画は色やかたち、空間を表現します。私は画面の中に時間を表現したいのです。私がその時そこに生きていた証しとして。

書の場合、一旦筆を紙に置いたらもう後戻りは出来ない。一度書いた線を取り消すことは出来ない。後はただ前へ前へと書き進むだけである。文字を書いている以上、一画目から始めて最終画を書き終えたらそれで終わりである。スタートからフィニッシュまで、作品は一定の時間の中で時の流れに沿って現前していく。書について、音楽や舞踊との類似性を指摘される所以である。
書の優れた作品を前にすると、書きはじめから書き終わりまで、無意識に筆線を目で追いかけていることがよくある。その時、ここは勢いよく一気呵成に、ここは慎重にじっくりとなど、筆がどんなふうに動いていったか、まるで製作現場にいたかのように書き手の筆の動きを想い描くことが出来る。

この観点に立つと、筆の轍(わだち)とは製作現場の時の痕跡であるとも言える。少し大げさに言えば、書を書くということは、見ることの出来ないその場限りの時の流れをかたちあるものに定着させる営みであると言えるのではないか。
私は海外でいろいろな抽象ドローイングを直に見てきた。なかには書に似たようなものもたくさんあった。だがその多くは、書のように書きはじめから書き終わりまで描線をうまくたどることが出来なかった。また、描線そのものに表情を与えようとする作品も少なかった。線質そのものより線によるコンポジション、つまり線と線との関係性を踏まえた画面構成の方に重きが置かれていた。だから何度も重ね書きされていてストロークの速度や深度が読み取りにくい。総じて、作品の中に時間の流れを読み取ろうとしても難しかった。
私は欧米の抽象絵画との比較の中で、やはり書には時間美というものが存在するのではないかと感じた。
 禅に、“ 今、ここ ”という教えがある。過去は過ぎ去ったものであり決して戻らず、また未来は未だやって来ない。どうにもならない過去を悔い、やって来ない未来を憂いても始まらない。私たちには「目前にある今」しかない。わき目もふらず“ 今、ここ ”を生きぬくことの大切さを禅は教えている。私はこの言葉を知って以来、パフォーマンスの時、かけがえのない現在という一瞬を強く意識するようになった。縁あって集まっていただいた方たちに見守られながら、その日その時一回限りのパフォーマンスを行う。パフォーマンスの間、私は一期一会の方々と“今”を共有する感覚を強く感じるようになった。そして“今”を共有した証の如くパフォーマンスの跡を残せたらいいと思う。

書と自然性

筆を置くと、墨は私の手を離れ紙の上をゆっくりと滲みはじめます。やがて乾いてぼかしを残します。これは不測の現象です。でも、だからといって抑え込むようなことはしません。技術は自然を制御します。私は自然の作用と寄り添いながら、あえて偶然の美を受け入れていきたいと思っています。

パフォーマンスの直後、「出来上がった作品はどうするのですか?」とよく訊かれる。「乾いた後で引き取ります」と答えると「撤収までどれくらいかかりますか」とまた訊かれる。
だが実を言えば、拍手の後もまだパフォーマンスは続いている。紙に放たれた墨は、観客が去った後も生きもののように動いている。墨が完全に乾ききるまで、墨跡は刻々と変化しながらパフォーマンスを続ける。観客の方々は私が関与した前半部分を見たに過ぎない。
筆を置くと、墨は紙の上をゆっくりと滲みはじめる。乾ききると溜まりが紋を残す。私はこうした人の手の届かない作用を作品の中に取り込みたいと思っている。

墨のにじみや溜まりは自然が生み出す現象のひとつであって、書き手には制御しきれないもの。だが、制御出来ないからと言って排除するのでなく、逆に積極的に受け止めて、自然の力とともに作品を完成させていきたい。
これは、まだミラノにアトリエを設けて間もない頃のブログ。当時はキャンバスにアクリル絵具で作品を制作していた。
 『キャンバスはアクリル絵具との相性が抜群です。でもアクリル絵具には墨のような「あそび」や「雑味」はありません。工業製品として常に均一で安定している反面、偶然性の入り込む余地のない素材です。なかなかこれに馴染めずに戸惑っていました。
 先日、墨と相性が良さそうなキャンバスを見つけた。布地がきめ細かくて肌触りがいい。これをいつか試そうと機会を待っていた。
この一週間まるで梅雨のような天気が続いていて、昨日も雨の一日。アトリエの窓を全開放して部屋の中に湿気をいっぱいに取り込む。淡墨をそっとキャンバスの上に落としてみる。すると、たちまち墨がキャンバスの上を泳ぎだした。久しぶりにホームグラウンドに帰ってきた生き物のように。刻々とにじみとたまりが変化していく。窓は一晩中開けたままにしておく。翌朝、着替えももどかしくベッドから起きだす。作品はすっかり乾いていて、夜中に墨と水とがたわむれた跡が残っていた。』

墨と水が出会うと魔物に変わる。にじみやたまりは変幻自在で決して思い通りにはいかない。だからこそ飽きない。我を出し過ぎてはいけない。自分の仕事は半分まで、後の半分は素材がもつ自然の力にゆだねる。筆を置いた瞬間が完成の時ではない。素材に宿る自然の力を借りて作品を仕上げる。
 一方、西洋絵画は向かう方向が全く違う。特に油絵の場合、その日の気温や湿度で絵具の発色や伸びが変わってしまったら画材として不可ということになってしまう。彼らにとって技術とは自然を制御するものであるという考えが強い。
西洋の “Nature”という言葉は、“Man”に対する相対的な概念として存在する。そこでは、主体である「人」と客体である「自然」が対峙している。「自然」は「人」によって制御される対象になる。一方東洋の “自然”という言葉は、もともと人を含めた万物全体を示している。人は自然の一部。自然を敬い、自然を畏れながら、自然とともに生きていく。
私は自然の作用と寄り添いながら、あえて偶然の美を受け入れていきたいと思っている。



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